『ジャズと生きる (岩波新書)』 穐吉敏子著 を読んだ。
すごいヒトだ!
でも何故かものすごく親近感を覚えた!
何年くらい前のことだったか・・・
私がまだJAZZを聞き始めてすぐ位の頃
知合いの そのまた知合いの女性JAZZピアニストが云った
「秋吉敏子のコンサートに行ったけれど
開演間もなく中座してしまった・・・・。
私には彼女の音はdrasticドラスティックだったから」
この頃 私は
秋吉敏子というヒトの名前さえ知らなかったのだけど
ピアノの音だけで
聞く相手の身体に変調を起こさせるような
インパクトあるピアノを弾くヒトがいる
・・・ちょっと曲がった好奇心で
秋吉敏子というヒトの名前を覚えた。
その後 幾らも待つことなく
たまたま見ていた番組で
秋吉敏子氏の連続講座を見る機会があった。
(2004年6月-7月NHK人間講座)
私はその時かなり驚いた・・・
その人はたいそう小柄でチャーミングな女性だったから
アキヨシトシコ・・・と音で聞いた名前から
どうしてこのヒトが女性と思わなかったのか・・・
私のかってな思い込みクセがまぬけているのだけれど
「ドラスティックなピアノを弾く」という想像と
かってな先入観で
トシコという名の男性・・・と思い込んだのだと今改めて思う。
(私ってかなり常識に欠くと、呆れる方もいらっしゃると思うが・・・まぁいい!)
この番組で
1956年、26歳で単身渡米し
日本人としては初めてバークリー音楽院で学び
1964年にフランス パリで
晩年のバド・パウエルと再会したとき彼が云った
「君は、女性ナンバー・ワンのピアニストだと思うよ」
この言葉を生涯忘れず胸に収めていること
1973年にロサンゼルスで
秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンドを結成
1983年にニューヨークへ戻り
秋吉敏子ジャズオーケストラを結成
自らの作編曲で通算30年にわたって活動を続けている
秋吉敏子氏自身のロング・イエロー・ロードを語っていた。
それからまた数年して
mixiで情報交換しているマイミクのQueikoさんが
秋吉敏子氏の山形でのライブに参加したライブレポを見て
そして2006/2/8 に出た♪ホープ 秋吉敏子 を
Queikoさんから頂いたのが
正真正銘の秋吉敏子氏の音源を聞いた初だった。

この♪ホープ というアルバムは
タイトルと同じく
希望に満ちてくるエネルギーに溢れているアルバムで
話しは始めに触れた
友人の友人のピアニストが云った
「drasticドラスティック」な感じは微塵たりとも伝わらなかった?!
このアルバムを聞いたおかげで
私は大そう秋吉敏子氏に興味が湧き
翌年の夏 秋吉敏子(pf)ルー・タバキン(ts/fl) DUOライブに参加
この日
パワフルな秋吉敏子氏ともう一つ印象に残ったことが
ご主人のルー・タバキン氏との距離感がなんとも素敵に見えた!
共演者&夫婦というだけでなく今日まで二人で築いた
JAZZ音楽への貢献と歴史・・みたいな
なんとも云えない二人の信頼感のような空気に触れた。
再び例の「drasticドラスティック」を持出すが・・・
未だにわたしにはdrasticには感じないけれど
昨日 読んだ
『ジャズと生きる (岩波新書)』に収められてある
秋吉敏子氏の苦しく厳しかった時代の覚書に触れると
確かに・・・並々ならぬ孤独と 強靭な負けん気と
悔恨の念に苛まれる
秋吉敏子氏を見つけることができる。
しかしこの著書を書上げたのは67歳の時らしいが(現在80歳)
その秋吉敏子氏が 巻末に書いた言葉が
とても素敵でたまらない!
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『ジャズと生きる (岩波新書)』より転記掲載
人間とは身勝手にできているのだろう。喉元過ぎれば熱さ忘れるともいうが、心を支えてくれる良きパートナーがいるという事は、掛け替えのない幸福である。しかし、自己だけの世界を必要とする作曲という仕事に携わる私は、タバキンが旅行に出るとホッとする。孤独を楽しめるということは、あくまでも独りではない、という前提のもとだからこそなのである。私がジャズを捨てようと思ったとき、捨ててはいけないと言ってくれたのはタバキンだった。私が人間として未熟だったこともあって、マリアーノとの結婚に破れ、そのタバキンに出会うまでいろいろな事があって、私は人間として成長した。その結果私の得た教訓は、人間に一番大切のは人間同士の愛情である、ということだった。言いわけはいろいろあっても、結果的には仕事を人間同士の愛情よりも前に置いていた私にとって、この信念に辿り着く過程となった九年近くの、いわば埋もれていた期間は、私にとって大切な時期だったといえる。
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